谷川岳 一ノ倉沢 烏帽子沢奥壁 凹状岩壁

徳永洋三(記録)、内田裕之
9/15の午前2時頃から1時間半くらい出合で仮眠をとり、4時半くらいにそこを出発して、変形チムニーへ向かった。私は谷川に来たのがこれで二度目であるが、内田氏は一ヶ月前に中央稜を登っているので、一応テールリッジまでのアプローチについては知っていると思われたが、聞いてみると、忘れたらしい。仕方がないので、地図を頼りに取付きの場所を目指した。しかし、ヒョングリの滝の下降点がなかなか特定できず、うろうろしていると、一時間後に出発したと思われる東出さんにバッタリと出会い、「お前等、何をやってンの?」と笑われた。道を教えてもらって、そのまま取付きの場所を目指した。時間を大幅に浪費してしまった。変チの取付き点をようやく特定することができたが、異常に濡ていて、「これを登るとなると、快適さが微塵も感じられない登攀になるぞ」と思った私は、内田氏も同様に思っていたらしく、「南稜を登りましょか」と問うと、彼は「それいいですね」と相槌を打った。しかし、我々が場所を特定している間に、他のクライマーがぞくぞくと南稜に押し寄せ、そこにしかクライマーがいない状態になっていた。結局、十数人がそこで順番待ちをしていたのだ。そこで、我々は凹状を登ることになった。やはり濡れていたが、変チよりはマシであった。そこに取付いたのは8時半頃であった。
ルート集によると、1Pは?プラスとあるが、実際に登ってみると、濡れているせいか、異様にムズイ。「本当に?プラなのか?」とブツブツ言いながら、トップで行った。2・3Pはやさしいが、やはり濡れているので不快。核心の4Pなのであるが、ホールドは大きいものの濡れているので、慎重に登った。この段階で12時頃であった。5Pは垂直の凹状から右にトラバースしなければならないらしいが、私はバック・アンド・フットでそのまま直上したのであるが、そこにはまるでピンがない。「これは間違ったかなぁ」と思った私は、そこを抜けた後、右へトラバースしてハング下へ。「これを登るのかよ」と思いながら、取付くとカチッとしていて見た目ほどムズくない。6P目はここも幾分濡れていたが、それほど困難なく二人とも登った。7Pの草付の方が、ピンがあまりなく、完全に濡れているので難しい。内田氏も「本当にここ?級なのかなぁ」と言いながら、登って来た。最後のピッチ、すなわちクラックを直上するところは、カチッとしたホールドばかりなのであるが、その内側が濡れていたりして、力が入らない。ムチャクチャにチョークをつけてなんとか抜けた。やはりここが一番ムズイ印象を受けた。内田氏も同様なことを言っていた。衝立の頭に到着したのは3時半頃であった。
それから、行動食を食べて、北稜の下降点に行くと、一ヶ月前にそこを下降したことのある内田氏が、「そこは違う」と言う。「そうなのか」と思った私は、5・6?逆戻りをして、右に行く道があったので、行って見ると、チャンと下降点がある。内田氏も「ここですよ」と言うので、早速、トップで下った。内田氏とロープを回収しようとしたが、引っ張ってもビクとも動かない。「マイッタなぁ」と思うと同時に、セカンドで下降する人には「結び目かなり手前に出して下ってくれ」と言うのを忘れていたのだ。それから、ひたすらロープを引っ張ったが、まるで動かない。仕方がないので、プルージックで途中まで岩に登り、二つのピンにスリングを通してセルフを取りながら、ロ
ープを振り回したが、少し動いただけで、ほとんど動かない。その時は、真っ暗になっていて、内田氏が「トクナガさん、ちょっと降りてきません?」と言うので、もう少しネバッた後で降りて来た。夜間活動するのは危険ということで、その日はビバァーグ。こんなところでビバァーグすると思わなかったので、防寒具はカッパのみの私に対して、内田氏はサバイバルシートを準備していた。その時は7時半。「長い夜になるなぁ」と思いながら、ウツラウツラ寝ていたが、息ができないほど風が強くて、目がさめてしまう。しかし、ビバァーグになった瞬間に内田氏は非常に不安そうな、彼特有の岩を登る際の苦しい顔になっていたが、その時はイビキをかいて寝ていた。それからひたすら朝になるのを待っていた。
次の日、5時半頃、明るくなってきたので、早速、ロープを回収するために、私はダブルプルージックで下降点まで登っていき、ロープをセットし直しに行った。どうも木に引っかかっていたのと、ロープを通した残置スリングがそれに絡まっていたのが、その原因のようであった。降りてきた私は念のためにロープを引っ張ってみると、動いたのでホッとした。続いて、次の下降点を探したのであるが、内田氏は一ヶ月前に下っているにもかかわらず、全然覚えていないと言う。彼がボンヤリ草付きを下ったのを覚えていると言うし、「あんまり左の方に行くと衝立の雲稜ルートを下降する恐れがある」と言うので、近くにあった草付きを私が下降したのであるが、誰も下った形跡のない、ホキなところで、私は「ここ、どうも違いますよ」と言って戻ってきた。残置支点の豊富な左の方へ行こうとすると、内田氏は雲稜に行くのではないかという、不安そうな顔になっていた。私は「ここしかないから、ここを下ります」と言って下り始めた。本当に支点が豊富であったので、私は「ここは間違いナイ」と確信していた。数回の懸垂を繰り返していると、何時の間にか中央稜を下っていることに気がついた。どこでどうなったのか分からないが、とりあえず雲稜を下っているのではないことが確認できて、ホッとした。下降し終わったのが12時半頃。それから、テールリッジを歩いていると、緑のトーザイ・コールが聞こえたので、こちらからも返した。皆にかなり心配をかけたので、済まないという気持ちだった。二日間ほとんど寝ていなので、慎重に降りてきた。出合に着いたとき、東出、広島、天津、斉藤各氏に申し訳ありませんと、内田氏と共に謝った。

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