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東京緑山岳会
1999年度 山行記録
1 富士山 剣ヶ峰大沢
2 八ヶ岳 阿弥陀南稜、赤岳主稜
3 八ヶ岳 湯川の氷柱
4 穂高 北穂東稜① 《春合宿》
5 穂高 前穂北尾根 《春合宿》
6 穂高 北穂東稜② 《春合宿》
7 秩父 笛吹川鶏冠谷左俣
8 谷川岳 幽ノ沢 V字岩壁右ルート
9 穂高 前穂北尾根~四峰正面壁・北条=新村ルート 《夏合宿》
10穂高 ドーム西壁・北壁 《夏合宿》
11北岳バットレス ピラミッドフェース他
12谷川岳 幽ノ沢 中央壁正面フェース
13甲斐駒ヶ岳 赤石沢奥壁左ルンゼ

注意:これらの記録は実際に登攀したメンバーによって書かれていますが、記述についてはそ
の正確さを保証するものでは有りません。計画の参考にされた場合に起きるトラブルについ
て、当会では一切責任を負いかねますのでご承知下さい。



富士山剣が峰大沢右岸ルート

99年1月15~16日

大林(記録)


 富士山の西面に位置し、今にも「真っ二つ」に割れそうな剣が峰大沢。その源頭部は大沢崩
れと呼ばれここ数年浸食が著しい。

 そんな剣が峰大沢源頭部に日本最高峰に突き上げるバリエーションがあることを知ったのは
つい最近だった。高所における登攀。そんなルートに心惹かれ偵察を兼ねて右岸ルートに向
かった。

 電車とバスを乗り継ぎ富士浅間神社バス停に降り立つ。新年も明けてまだ間近、神社に参
拝し今年一年の安全を願う。あとは佐藤小屋に向かうのみ。朝九時頃出発しトコトコ歩いて佐
藤小屋。そして五合目駐車場へ。途中、吹雪の中に集団の影。なんとこの時期にも雪訓か、ど
こに向かうのだという視線を背に駐車場からは御中道と呼ばれる道を新しいトレースをつけな
がら歩く。途中御庭という所があり、夏にはハイキングコースかきれいな花が咲くらしい。この
御庭より直上するのが七太郎尾根。さらに進むと仏石流とどれも独特の雰囲気を持つ光景。
御庭からは樹林帯に入り、いくつかのデカい沢を越え大沢右岸にある大沢休泊所に富士山を
約三分の一周して一七時到着。この建物は護岸工事用でもちろん今は無人。一升瓶でも置い
てないかと外から見るも無し。標高は二三一七メートル。裏に何やら神社あり。休泊所の前に
テントを張り、冬合宿の残りを食べ就寝。寒さと多めの水分補給のため起きること数回。しか
し、外は満天の星空だ。

 そして、あまり眠れず翌朝を迎えた。朝から快晴まさに冬型の気圧配置。風はあるものの過
去の経験からこれは行けると踏み、七時半出発。神社の裏手より登り始め、しっかりした雨量
観測計にいたずらすることもなく、樹林帯の急な登りを終えると目の前にはまさに大沢崩れが
深く切れ込んでいる。トラロープをくぐり、右岸沿いに高度を上げていく。前方には左岸鎌型壁
の上に測候所が見える。それにしても登るにつれ内部は異様なものだ。冬は凍結されていると
は言え、いかにも脆そうだ。

 森林限界を過ぎるとやがて岩稜となり、ダルマ石やピナクルと呼ばれる岩があり、この付近
から大沢内部を下り、各ルートに取り付くらしい。大沢は上部で二俣に別れ、その挟まれた岩
稜は第一から第四と四つの岩稜を持ち、右俣左俣それぞれ外側には右岩稜と左岩稜が走っ
ている。これだけのルートをこの高所で目の当たりにし、凄いの一言だ。しかし、このルートを
登るには落石や雪崩と精神的に来るはず。しかもこんなマイナーなとこ今じゃ誰も登らないと
思う。しかし僕の一つの課題として心に刻もう。

 そろそろザックの荷を背に感じながら、大沢は上部で右岸側に食い込んでいるため、左へと
巻き気味に登る。岩稜を進み時には岩を左右に巻き雪壁を快適に登り、尾根をいくつかトラバ
ースぎみに左上し右岸を離れ仏石流の源頭部に出た。広い雪面で頂上も間近なので風も強い
が、この付近は位置的に西風なので風を背に受ける形となり、少しモロした愉快な気分で最後
のガレを登る。

 一二時半にお鉢到着。さすがに風は強く、行動食のベビースターラーメンの袋が手元から飛
んでいった。お鉢めぐりで剣が峰へ。そして復路は御殿場口へと下降した。御殿場には冬に何
回も通っているのでのんびり下る。太郎坊に一七時着。装備をはずし、ここからも国立青年の
家まで歩く。可愛い姉ちゃんが「良かったら車に乗って行きますか」ということもなく、一九時
着。無事終了。バスで御殿場駅へ。

 いつかはバリエーションルートからしかもこれらのことを一日でやれたらなあと思う私でした。

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八ヶ岳 阿弥陀岳南稜~赤岳西壁主稜

1999年1月30日~31日

大林L・逢沢(記録)

 一人で南稜に行くという大林さんに同行をお願いして、更に東出さんたちも八ヶ岳に入るらし
いので、途中、舟山十字路で落としてもらったのでアプローチがうまくいった。南稜方面には数
パーティーが入っていた。広河原沢側から踏み跡をたどって南稜の最低コルにとりついた。ほ
とんどのパーティーがこの方法をとっていた。尾根につくと立派な標識があって驚いた。時折、
樹林の切れ目から広河原沢奥壁や南稜のスカイラインが見えると俄然、登攀意欲がかき立て
られた。立場山で、先行パーティーを抜き、ラッセルとなる。先週、旭岳東稜から南稜を見たら
雪がほとんどなかったが、今週は膝くらいの快適なラッセルである。青ナギで休憩していると、
先程のパーティーは立場川側へ下っていった。獅ケ岩を登るのだろう。自分がバリエーション
を登るようになって、登山大系なんかに出ている「このルート面白そうだけど登る人いないよな
あ」と思うルートでも、結構登る人がいることを知った。旭岳や権現東面、獅ケ岩なんかも記録
を調べると結構あるある。同じような考えを持つ人は多いんだと思った。

P1あたりは雪も深く腰くらいまであったが、天気は快晴そのもの。本当にうれしくなってしまう。
P3はルンゼ内の雪はしまっていてアイゼンが気持ちよく鳴った。ザイルは使わなかったが、こ
れも条件次第だと思う。しかし太いフィックスがあった。P4は左から巻いて登れるところを登っ
ていったら頂上に着いた。これも条件次第だが、今回は悪いところはなかった。後に自分の宝
物、独標登高会の『八ヶ岳研究(上、下)』を手に入れて、広河原沢の記録などに興味を持つ
と、この時もっと広河原沢奥壁を観察すればよかったなあと思った。まあ、またいつでも来れる
だろう。

 阿弥陀頂上には誰もいなく足跡もなかった。南稜は技術的にどうこうでなく、ルートとして変化
に富んだすばらしいルートだと思った。「たかが南稜、されど南稜」大林さんと笑いながら言っ
た。

 頂上から中岳へ注意しながら下り、雪崩に注意しながら中岳沢を下った。腰までのラッセル
が大変だった。南稜から北稜を下ったらさぞ充実すると思った。またいつか……。東出さんた
ちと行者小屋で会う予定だったが結局来なかった。フライのないテントは寒かった。

 翌日、赤岳主稜へ。朝、ガスが出ていたが文三郎を登るころにはガスも晴れてきて快晴とな
る。主稜には文三郎からトラバースしてチムニー側から取りついた。途中ショルダーを登るとい
う大学生2パーティーは、ビッグウォールが登れそうなくらいのフレンズ、ヌンチャクなどを持っ
ていたのには驚いた。彼らは両方とも結局取付きがわからず引き返したようだった。

 チムニーは思ったより難しくなかった。稜とは言い難い岩の出た斜面をスタッカットで登ってい
った。八ヶ岳はプロテクションに岩角を利用するんだと知った。きれいな雪稜を登ると、一目で
上部岩壁とわかる下につく。どこを登るか一瞬ためらうが、忠実に稜と岩壁の接点に取りつく。
登れそうな凹角を登ってゆき、稜上に出ればこのピッチは終わるが稜上までもう少しというとこ
ろで難しいフェースに取りついた。ハーケンにシュリンゲがぶらさがっていたのでここがルート
かと思ったが、落ちそうなので戻ってふと右を見るときれいな短いクラック(越沢の左ルートみ
たいなの)があった。ルートファインディングに反省しつつクラックを登るIV級くらいだった。越沢
のアイゼントレの成果があり全く問題なし。このピッチ四五メートルいっぱい。あとはあいかわ
らず不明瞭な稜を登り凹状のところを登り、ガラガラの斜面を経て間もなく北峰頂上。南峰頂
上で大林さんと写真を撮りあった。二人の写真を後続で登ってきたガイドとおぼしき人に頼ん
だら「主稜登ったぐらいではしゃぐな」と言わんばかり撮ってくれた。主稜はぼくらとそのパーテ
ィーだけで、南稜リッジはガイドで三、四パーティーが登っていた。頂上からはすばらしい展望
がのぞめた。あまりに天気もよく充実した登攀で、大林さんと二人、喜びと満足感をかみしめな
がら下った。

 主稜のようなルートは一見どこでも登れそうなのでルートの見定めに注意がいると思った。こ
のルートもすばらしいと思う。次はショルダー右、左、そして左ルンゼを登ろうと思った。

 大林さん、また八ヶ岳のルートを登りましょう。

〈コースタイム〉

 30日 舟山十字路七:三〇

    青ナギ一〇:一〇

    阿弥陀岳山頂一二:四〇

    行者小屋一三:四五

 31日 発 七:一五

    取付八:二〇~八:四〇

    赤岳頂上一一:四〇~一二:〇〇

    行者小屋一二:五〇

    美濃戸一四:三〇 

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湯川の氷柱

1999年2月6,7日

東出(記録)、徳永

 氷初心者の徳永のトレーニングに湯川へ向かう。雪が少なくエリアのすぐ上あたりまで車で
入って幕営。アプローチがないので「楽しくやるか~」と酒宴となる。しこたま飲んで就寝。当然
翌朝(というより昼近くまで寝ていたが)は二日酔い。徳永曰く朝六時過ぎまで飲んだくれて、寝
る前に「明日は六時起きだー」と小生が怒鳴っていたとか。深く反省。結局一一時ころから準
備して、河原に下りたのが一二時。アプローチの近さが裏目に出た。酔いで足元が定まらない
状態だったが、とりあえずショートルートということで白髪エリアに取り付く。

既に一パーティーがトップロープで練習をしていた。八メートル程度のかぶったつららを登ってト
ップロープをセット。上キジこそ出なかったものの、非常に気分が悪い…。徳永は当然のごとく
途中で力尽きて終了。ついで対岸の二〇メートル程度のところで再度ロープをセットし練習。さ
らに他のパーティーがトップロープで練習していた脇の、かぶったつららを登ってロープをセッ
ト。すでに四時近くになっている。徳永は一〇メートルほど登ったところで既に力尽きてもがい
ている。こっちは二日酔いが抜けず、ぼけた頭でビレイ。と、いきなり人の頭ほどの氷塊が額
を直撃する。徳永が落としたやつが、ナメ氷でバウンドして、運悪くこっちに飛んできたのを、ボ
ケッとビレイしていたため見ていなかった。雪がみるみる赤く染まる。メガネの片眼のレンズも
吹っ飛んでどこかに行ってしまった。とりあえず徳永を降ろしたが、こっちが血まみれなのはそ
っちのけで、「もう少しで登れたのに」などとブツブツ文句を言う。夕暮れのなか、とりあえず車
に戻って手当てをする。眉間が一センチほど切れただけで特にひどくはない。その晩は反省し
て(勿論、出血を止めるためにも)酒を断って寝る。

翌朝は七時頃から準備し、乱菊の氷柱周辺を登りこむ。氷の発達が今一つで、乱菊どころ
か、しょぼいつららが垂れている程度だ。林道直下の壁は氷がなく上まで抜けられないため、
一応トップロープを垂らしておいて、氷部分をリードで登りきったら、ロープを掴んでテンション
で降りるパターンを繰り返した。無論徳永はトップロープで練習し、七〇~八〇度くらいの傾斜
なら結構登れるようになった。夕方まで登り込んで終了。

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平成11年春合宿・穂高岳(4月30日~5月4日)についての私的・哲学的考察

《北穂高岳東稜クライミング編》

徳永洋三

 昨年の一〇月に緑山岳会に入会して以来、今回のような長期にわたる合宿生活を経験した
ことのなかった、したがって今回のアルパイン・クライミング、いわゆる〈本ちゃん〉が初体験と
なった私にとって、涸沢にたどり着くまでの初日と、すべての山行を終えた最終日を除く日々
は、前穂高岳・北尾根および北穂高岳・東稜に挑戦し達成したという、束の間の喜びの、その
場ごとの陶酔を味わいながら、〈死なないで帰ることができるのであろうか〉という幾許かの不
安感に、又睡眠不足と日々の活動によって絶えず生ずる身体的および精神的疲労に耐えて
の、厳しい合宿であった。

 ここでは、五月二日に行われた、北穂高岳東稜クライミングについて述べることにする。

 午前四時頃に起床し、涸沢から北穂へ向けて六時頃に出発した我々のパーティー(赤井、須
藤、徳永)は、北穂沢カールをトラバースぎみに東稜のコルを目指した。その途中で休息を取
って前穂高の方を振り向くと、別パーティーの樋口Bさん、広島さんの二人が三・四のコルを目
指してガンガン登っている姿が伺えた。我々もそれに負けじと登り始めた。

 稜へ出ると、2パーティーがすでに〈ゴジラの背〉に取り付いていた。待つこと約三〇分、辺り
の景色を眺めていた。まさにその日は文句のつけようのない晴天で、その美しさに―これなら
ばここまで苦労して来た甲斐があったな―などと一人でナットクしていた。

 我々の順番が回ってきて、赤井さんがリードで、須藤さんがユマールで、私がフォローで登っ
ていった。そこはそれほどに難しい岩ではなく、私がそう感ずるくらいなのであるから、先輩方
はかなり物足りないのではないかと思った。無事に核心部分を通過しホッと一息つきながら上
を見上げると、北穂の頂上が見える。その瞬間に―この急斜面を登るんじゃないだろうな―と
思ったところ、赤井さんが「行くぞ」と言う。今までこんなに山を歩いたのは初めてで、体力的に
かなりきつかっただけに、北穂の急斜面に対して--そんなに僕をいじめないでくれ~--と
いう心境だった。そんな思いを抱きながらも、一〇時三〇分頃なんとか頂上まで登り詰めたの
であった。

 今回の合宿を通じて、私がこのような貴重な体験をするに至る〈場〉を提供していただいた諸
先輩方に感謝しつつも、〈苦痛を通して歓喜〉という言葉を本当に実感した体験でもあった。そ
れは、苦労して何かを成し遂げた時にその喜びを分かち合うといった、人間の共感的理解を、
つまり、苦難の中、人々が一体をなることによって生ずる集団的エクスタシーを、又長期にわ
たり寝食を共にするといった、いわゆる〈同じ釜のメシを食う〉生活を通して、日常あまり交流の
ない人たちとの間にある種の親密感を味わうことができたことである。その意味において、今
回の合宿で味わったそれらの実感は、これから緑山岳会で厳しい活動をする上で、人間対人
間の信頼関係を築き上げる萌芽として、重要な意味を持つものではないかと私は思う。 

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春合宿・穂高涸沢

曽山・赤井・樋口B・広島・須藤・徳永・天津(記録)

上高地~前穂北尾根

1999年5月1~2日

残雪に輝く超クラシカルな前穂北尾根を、すばらしい晴天の下でスリリングに踏破した! 四
月三〇日夜、新宿集合から急行アルプスで出発。翌朝六時過ぎに上高地へ入るとかなりの冷
え込みで閉口したが、レストランで朝食をとって歩きだす頃には緩み始め、四日間にわたる魅
惑の合宿をスタートした。

 華やかな数多の人の波を追い抜き、重装備にもかかわらず二時間三〇分で横尾へ。途中で
仰ぎ見た明神岳主稜や前穂東壁群、横尾谷へ入ってすぐに出現した屏風岩の大岩壁などは
稜線以外には全く雪が付いていなくて、六月の様相だと話し合う。それでも、樹林帯の中程か
らは雪道となり、沢筋へ降りて雪渓通しのルートになると気分も締まった。

 北穂を正面に見てから大きく左へ曲がり、シュルンドを避けて一か所だけ右岸を。高巻きし、
最後は長~いスロープを数珠つなぎの人の列に揉まれながら、一五時前に涸沢へ到着。数メ
ートルの積雪で夏用の水場などは完全に埋もれていたが、一四〇張の届出で大賑わいとい
う。夜には各テントの灯りが浮かび上がり美しい。

 五月二日、七人のパーティーを二つの分けて、私は三人のメンバーと共に前穂北尾根を登
攀する。

 午前六時出発、五・六のコルまで一時間余りで急登を一気に上がりハーネスを装着。稜線上
のルートに取り付くと五峰のヤセた雪壁の登りからいきなり緊迫の展開となり、スリリングな行
程が始まった。五峰では涸沢側が垂直に切れているだけだったが、四峰では奥又白側も切れ
落ち、ここでのスリップは数十メートルの“転落”につながり致命的な結果を招くだろう。さすが
にプレッシャーに耐えかね、四峰下部の浮石の岩稜帯と左側から回り込む中間雪壁ではザイ
ルで確保する。けれども、その上の雪壁は再びノーザイルで緊張し、他のパーティーで賑わう
三・四のコルまで下ったときはホッとした。--そして、ここでの渋滞が後の行程に大きく影響
していく。

 前にいた8パーティーが登攀していく実に四時間も、ツェルトをかぶりスープを沸かして待ち
続けた。快晴で暖かかったがこの標高では風も冷たく、右側のIV級ルートから追い抜く案もボ
ツとなり、目出帽もかぶって備えることに。

 一四時、ようやく核心の三峰に取り付き、当パーティーは二本のザイルで来ていたため三人
目はユマールで越え、私がラストで登った。岩は堅く、ガバを素手でしっかり捉えながら快適に
二ピッチを行く。1P目はリッジを奥又白側から回り込む階段状、2P目は凹角状のチムニーか
ら石門をくぐっての雪壁で、高度感は抜群だがアンザイレンしている安心があった。さらに慎重
に急雪面を詰めると三峰の頭に達し、そこからもヤセ尾根→二峰の雪壁の登り→二峰直下で
の涸沢側へのへつりでの通過→一・二のコルへの一五メートルの懸垂下降とつづき、相当ドギ
マギしつつ一七時に前穂山頂へと逐に到着!槍ヶ岳まで連なる主稜線のシルエットが感動的
で、これから吊尾根を経由しての長い下山路への危惧をしばし打ち消した。

 そして、夕暮れが近づく中を急いで吊尾根を下り始めるが、奥穂までの三分の二程を来た地
点で突然リーダーが、「時間も押しているのでここを下ろう。」と涸沢までストレートに下れるバリ
エーション(?)の急斜面を指さした。かくして、六〇度はありそうな雪面を二人ずつのつるべで
クライムダウンすることとなる。

 ビレイ点はもちろん刺し込んだピッケルのみで、後ろ向きのキックステップで延々と5ピッチも
降下し、最後はトレースも無い深雪の中を二〇時過ぎにようやく帰還した!

 2シーズンにわたり待ち焦がれた積雪期の前穂北尾根は期待どおりで、夜には雪焼けで顔
も痛かったが、ノーザイルの連続による強いプレッシャーと共にその鮮やかなラインを胸へと
刻んだのでした。

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北穂高岳・東稜

5月3日

曽山・樋口B・広島・天津

 合宿三日目、二つに分けた各パーティーの登攀ルートを昨日と入れ替え、私は三人のメンバ
ーと共に北穂東稜を攻略した。

 出発は五時過ぎで(起床は北尾根パーティーに合わせて二時半だった)、深雪の北穂沢を詰
めて五〇分程でトラバース点まで。ここでスロープが一旦平らに近くなっており、トレースも完全
で非常に明瞭だった。そして、側壁を上がって東稜に取り付き、北尾根と同じくナイフエッジで
の“安易な事故”に対するプレッシャーとの闘いとなる。ヤセた雪稜を三〇分も進むと『ゴジラの
背』が現れ、前の一パーティーを順番待ちしてから登攀開始。

 待っている間はとても寒くて雪もチラついたが、リッジを横断しながら岩峰を越え(ガバで堅い
岩の1ピッチ)さらに雪壁を登っていくと気分が高揚した。涸沢側は鋭く切れていて高度感が強
まり、その後も幅一メートルほどのヤセ尾根と雪壁が連続して現れるルートで慎重に通過し
た。

 クライムダウンを含む短い危険箇所を一度フィックスロープで越えた他は、すべてノーザイル
で緊張する。霧がたち込める中、『大コル』を経て山頂直下の雪壁もバケツの硬い踏跡を丁寧
に登り、所要四時間でやがて北穂小屋へと直接到達した!

 小屋は一般登山者で賑わっており、私たちもビールで乾杯する。帰路はクラストした斜面をシ
リセードで下り、正午には涸沢BCへ戻って本合宿の主要部を終了した。

「バケツではなく、トレースの無い柔らかい雪だともっと雪稜を楽しめたが……」というリーダー
の感想にもあるように、メンバーはプレッシャーに強く、安全面よりもスピードを明らかに重視し
ていたけれど、残雪期のクライミングをまずは楽しめた充実のGW山行でした。

 〈コースタイム〉

5/1  上高地8時~横尾10時30分~涸沢BC14時50分

5/2  涸沢発6時~五・六のコル7時10分~三・四のコル10時~前穂高山頂17時~吊尾根
下降点18時~涸沢20時15分

5/3  涸沢発5時20分~トラバース点6時10分~東稜起点コル6時45分~ゴジラの背7時
30分~北穂小屋9時30分~涸沢12時

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鶏冠谷左俣

1999年6月20日

樋口B:L・大林・須藤・徳永・天津・広島(記録)

 前夜に車で西沢渓谷入口のバス停に入り、駐車場で仮眠をとる。朝七時に起床。各自朝食
を簡単に済ませ八時に駐車場を出発。そこから林道と河原を三〇分程歩くと遠くに鶏冠尾根
の岩峰群が見え始め、水量の豊富な鶏冠谷の出合に到着する。早速、渓流シューズに履き替
え、水の中に足を入れる。水の冷たさが直に伝わり、また夏が来て岩や沢のシーズンが始まっ
たんだなあとあらためて実感した。

 九時、樋口B氏がトップで遡行開始。ルートはナメやナメ滝の連続でかなり快適なため樋口B
氏もぐいぐい進んで行く。滝をダイレクトに登る時にかかる水しぶきに心が踊る。 鶏冠谷の出
合から二時間で一ノ沢の分岐点にやって来た。水流右側に大滝があらわれ、左手には一ノ沢
からの巨大なスラブ帯がそびえている。我々の計画は右側の大滝を越えて一ノ沢ではなく三ノ
沢をつめるため滝の巻き道の偵察がてら、ここでしばしの休憩をとる。滝の巻き道はいたって
明瞭なのだが、よく見るとこの大滝と一ノ沢スラブの間に登攀可能な壁がそびえていた。

 正直言うと、僕は今週の山行は沢ではなく岩の本チャンに行きたかったので、ここは是非とも
滝を巻くのではなくこの岩壁を登って上に抜けたかった。大林氏も同じ考えであるらしく、滝壺
から壁の様子をうかがっていた。そして、大林氏の「何か行けそうやなー。広島君登ってみ
る?」の一言で壁を登る覚悟を決め、登攀の準備をする。大林氏と自分が先行して滝壺上部
二メートルぐらいの壁をトラバースして岩壁の基部へ。滝からの水しぶきを浴びながらハーケン
で支点を作る。大林氏にビレイをお願いし、自分がリードする。 岩が濡れていて滑りやすいた
め、三点支持で確実に登っていかなくてはならない。思わずホールドを握る手に力が入る。五
メートル登ってハーケンを打つ。壁は三〇メートルぐらいで、中間部より右手にまわり込んで偵
察のとき確認済の縦のクラックをホールドとスタンスにして登っていく。下から見ると急に見えた
が、いざ登ってみると傾斜もきつくなく、三~四級の登攀といった感じだった。

 かなりランナウトしたが何とか上に抜け木で支点を取りビレイ解除。下から登ってくる大林氏
には、ここをスルーしてもらい、さらに右手に三〇メートルトラバースしてロープをフィックスして
もらう。

 一三時三〇分、全員滝の上へ。後で樋口B氏に「あそこで広島が登ってくれたおかげで単調
な沢登りがより充実したものになったよ」と言ってくれて、自分もみんなの役に立つことが出来
てとてもうれしかった。僕は岩の世界ではまだまだ新参者なので、あまりえらそうなことは言え
ないが、この壁に対峙した時、何かが試されている様な気がした。右から滝を巻くのか、それと
も壁を登って上に抜けるのか。僕はこれからの自分の登攀にはずみをつけるためにこの壁を
登ることにした。

 滝から三ノ沢出合まではナメ滝の連続で終止する。

 一四時、三ノ沢出合へ。ガレ場とやぶを一時間弱程度で鶏冠尾根に到着。一五時。

 尾根上には石楠花が群生し、ピンクの花を咲かせていた。登山道のないこの場所に沢を登
ってきた者だけが味わえるこの光景に、来年は一ノ沢スラブを登って、見てみたいと思った。 

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谷川岳 幽ノ沢 V字右

7月17、18(17のみ登はん)  

東出(記録)、須藤、広島

金曜晩、南武線谷保駅集合。須藤さんの車で出発。一ノ倉出合で幕営。翌17日、天気は今一
つで岩も湿っていたが、とりあえず幽ノ沢へ向かう。雪渓の状態が分からないので展望台経由
で二股へ。二股付近は雪渓が残っていたが、二股から下は崩壊しており、展望台経由で正解
だった。濡れたカールボーデンを取り付きへ。誰もいない。中央壁正面フェースへ向かう。が、
適当に見当をつけてトウフ岩の右上あたりをトラバースし始めたところ(トラバースルートはもっ
と上のあたりだと後から分かったのだが)、水のしたたる草付が殊のほか悪く、1ピッチザイル
を伸ばしたところでガタプルになって引き返す。

やや迷ったが、V字の右なら多少濡れていても大丈夫だろうとルートを変更する。右俣リンネを
渡り、2ピッチほど登ったところで草付に何か黄色いものが落ちているのを発見。どうせホキた
シュリンゲだろうと思いつつ、そばまで登ってみると、なんとシャルレのアイスバイルが落ちてい
るではないか。こんなもん、まともに買ったら2,3万円する代物だ。思わず「やったー」と雄た
けびを上げてしまった。岩が濡れてなければV字の右など絶対来ないルートだが、今日は来て
よかったとつくづく思う。話は戻って、ルートにピンは少なく、45mまるまるノーピンのピッチもあ
ったが、順層の岩がガッチリ掴めて多少の濡れは気にならない。核心手前のテラスでボルトが
数本打ってあり、ここで広島か須藤さんに登ってもらうことにした。広島が行きたいと名乗りを
あげてリードする。核心からその上の草付へ。すぐに石楠花尾根に飛び出す。そこでザイルを
解いて堅炭尾根へ。ぬめった堅炭尾根は非常に歩きにくい。

一ノ倉出合いに着いたのが16:00頃。須藤さんは日帰り予定のため帰京。広島と駐車場で
幕営し、夕飯を食おうとしたが、ヘッドを忘れてきた。しかたないので焚き火を起してナベをくべ
て米を炊く。でも駐車場で焚き火してよかったんだっけ? まあいいか。翌日は左フェースを
と、念じつつ就寝。翌朝、朝から雨。結構降っている。今日は須藤さんと入れ替わりで天津が
登りにくる予定になっている。駐車場を探すと、天津が車の中で寝ている。雨は降っているし、
どうしたものか。天津は「せっかく来たのだから縦走でもしたい」と。もっともな話だ。で、どこを
登りたいのかと聞くと「堅炭尾根」。昨日いやな思いをして下りてきたところに、今日また行くも
のか。天津には悪いが、2人でさっさと帰京することにした。天津は雨のなか、白毛門まで一人
寂しくピストンしたらしい。

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99年夏期合宿・前穂高岳・北尾根~四峰正面壁・北条=新村ルート

1999年8月10日

曽山L・徳永(記録)

 今回の合宿は八月七日から八月一一日の行程で行われ、初日と最終日を除く期間が登攀
日となった。初日と二日目は、極めて晴天に恵まれた登攀日和となり、さらに待ち時間無しとい
う好条件の下で、滝谷ドームの三ツ星ルート--ドーム北壁右ルート、ドーム西壁雲表ルー
ト、ドーム中央稜--を登ったのであった。しかし、二日目の夕方から雲行きが怪しくなり「明
日(三日目)は登れないんじゃないですかね?」と、表面上は残念さを装うような言葉を皆に発
しながらも「明日は一日中ゴロゴロできるな」という、それに相反するウレシイ気持ちが沸いて
いたのであった。

 三日目は、初日目や二日目ほど行かないまでも、まずまずの天候となってしまい、昨日私が
期待していたそれに恵まれず、又「山の天候は予測できない」という平凡なことを認識していな
くて、その誤解の結果を私は引き受けることになってしまった。

 その日の目的のルートは松高ルートで、メンバーは曽山監督と私の二人であった。六時頃に
涸沢のベースを出発して、北尾根五、六のコルを経由し、奥又白谷へ下り、四峰正面壁を目
指してひどいガレと雪渓を登り返したのであるが、我々の前に2パーティーくらいホキなそれが
先行していてガンガンと石を落とすので、しかもあまりにも落とすから、我々の身を案じ見るに
見かねた曽山さんが「石を落とさないでもらえます?」と言ったのに対し、彼等は「わかっちゃい
るんだけど云々」と、愚にもつかぬ言い訳をしていた。それを聞いていた私は「バカな奴等だな
ぁ。一言謝れば済むこと--勿論、謝って済むものではないが--なのに。それより、曽山さ
ん、キレてないだろうか?」と思った。

 彼等の落石の被害を食らわず、無事に松高ルートの取り付きにたどり着き、先行のホキなパ
ーティーがタラタラ準備している隙間を縫って、我々は素早く準備し「先に行きます」と爽やかな
顔をして言いながら、九時半頃、先にそこへ取り付いた。

 3ピッチほどある、草付き混じりの、III級程度の凹状ガリーを、1ピッチ目は私がリードして『つ
るべ』で登った。しかし、2ピッチ目を終了したとき、このルートが松高ルートではなく、北条=新
村ルートであることが判ったのであった。つまり、我々は間違えていたのだ。ここまで来たので
あるから、松高ルートより少し難しくなるが、それはとても良いルートであると曽山さんが言うの
で、そのまま進むことになった。3ピッチ目を終了し、ハイマツテラスに達すると、次に核心部の
ハング帯である。そこはグレードにしてIV+、A1。フリーでは5.10ほどあり、曽山さんが人工で
リードした。彼の人工の技術は見事なもので、それが上手くない自分にとってかなり勉強になる
ものであった。一方、私はセカンドということもあり、フリーで行くことにしたのであるが、岩に取
り付き始めて1メートルも登らないうちに、左足を乗せているホールドが欠けてしまい、ぶら下
がってしまったのだ。おまけに左腕を擦り剥いてしまい、急きょ人工に切り替えた。しかし、その
ピッチはそれに変えてもかなりの難しさで、かなり苦戦していたが、なんとか登れたのであっ
た。五ピッチ目はIV級ほどあり、私がリードしたのであるが、ここはトラバースしなければなら
ず、それが得意でない私にとっては、またもやかなりの苦戦を強いられた。一応、核心部を突
破できて少しホッとしていた。6ピッチ目は曽山さんがリード。7ピッチ目は私がそれをして無事
に終了点に二時半頃たどり着いた。登攀終了後は「自分もリードで行けた」という満足感を抱
きながら、ベースのある涸沢に向けて下って行ったのであった。 

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夏合宿・滝谷ドーム~北壁

1999年8月13日

大林L・広島・天津(記録)

 全日程を雨に降られた不運の合宿だったが、二日目には滝谷へ初見参して“メッカ”の雰囲
気を楽しんだ。

 八月一一日水曜夜、新宿で大林さんと待ち合わせ急行アルプスで出発。車内ではあまり眠
れず、七時半に上高地を発って涸沢まで登った初日はだいぶ辟易した。休憩して腰をおろすと
ウトウトしてしまう感じで、特に本谷橋からの登り返しと最後の石段ではリュックの重さが肩に
堪え、同時に冷たい雨も降り始めていた為、前半組の樋口Aさんと広島さんが万全なテントで
迎えてくれたのは嬉しかった。涸沢着一四時半。夜は前半組が満喫したクライミング談を肴に
盛り上がる。

 八月一三日、五時出発でいよいよ滝谷へと向かう。南稜のアプローチを素早く抜け(他の二
人が速すぎるので待たせてしまったが)、松浪岩の横からC沢左俣を下降してドーム西壁の取
付点を目指した。

 そう、浮石で埋まった超ガレたルンゼを神経を擦り減らしながら下ったのは、西壁の歯科大
ルートを登攀予定のためで、結局は取付テラスに乗るまでの登り口を見つけられず断念。同
ルンゼの落石と闘いながら稜線まで登り返し、天候も怪しい霧が拡がってきたので、北穂南峰
を経てすぐ下に見えたドーム北壁へと変更した。(この選択は正しかったと判断できる。翌日の
屏風岩登攀に備えての最終チェックとなり、また一六時過ぎからは雷雨となったのだから)

 テラスへ着く直前のトラバースが悪かったが、北壁の岩は堅くハーケンもベタ打ち。一本目、
右端の北西カンテを大林さんのトップで登る。細かいホールドのカンテ左端から(途中で少し人
工)、2P目はチムニー右のフェースをA1で抜け(私はセカンドとはいえ、残置シュリンゲが切
れて落下を体験)、上部は浮石だらけの樋状をフリーで登り“ドームの頭”へと達した。実はル
ートを間違えていて、1P後のビレイ点を「右ルート」と同じ所にとってしまった為、順番待ちとな
り約三時間を要した。

 二本目、広島さんのトップで「右ルート」を登る。1P目のフェースを広島さんはフリーで越えよ
うと奮闘したが、途中で諦めA0で。私は最初からA1で、間隔がやや遠目のハーケンラインを
ゆく。2P目も人工による直登だが、私が登っているとき降り始めた雨はここで強さを増し、雷
鳴がすぐ近くの上空に響いて危ない状況。大林さんは2P目を登らず、私たちも上へ抜けずに
懸垂で降りてしまい終了した。

 下山行程では、来るときにイヤだったトラバース箇所を避け、手前のルンゼを抜けて北穂南
峰まで上がり雨の中を一八時半に涸沢BCへと帰還。

 初めての滝谷で高度感のプレッシャーを受けず又テラスに荷物を置いて登れた為、「三ッ峠
ゲレンデみたい」というのがストレートな印象だが、そのアプローチの悪さと時にボロボロの岩
質はやはり“本場”の香りを漂わせ、次回は二尾根や四尾根を攻めたいと強く感じたのでし
た。

〈コースタイム〉

8/12  上高地発7時30分~横尾10時00分~涸沢BC14時20分

8/13  涸沢発5時00分~松浪岩基部7時15分~ドーム北壁取付10時30分

      北西カンテ 11時00分~13時30分

      右ルート 14時00分~16時30分

     涸沢BC着18時30分 

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北岳バットレス ピラミッドフェース 

1999年8月27,28  

東出(記録)、徳永

木曜晩に集合し、バットレスへ向かう。府中ICに乗る頃にはかなり雨が降っていたが、山梨で
は星空が見えている。期待できそうだ。広河原で一杯飲んで就寝。朝方、雨がじゃかじゃか降
ってきてガックリする。今年は本チャンに行ったときに限って、決まって雨にやられている。谷
川でも土日続けて登れた試しがない。またか…と思うとショックがでかい。

「今日の登はんはダメだなあ」と予報を聞きながらゴロゴロ寝ていると、昼から晴れ間との予
報。外は雨も上がっており、さっそく準備して二股へ向かう。平日だというのに、下山客がぞろ
ぞろ降りてくる。不思議なり。二股で荷をデポし取り付きへ。ピラミッドフェースはガスに巻かれ
て見えない。取り付きで岩の状態を見るが、もともと湿っているのと、草付きからのしたたりで
悪い。それでも「晴れれば乾くか~」と楽観視しして取り付く。既に13時近い。

つるべで5ピッチほどザイルを伸ばす。ところどころ悪いが、いつでも四尾根に逃げれると思う
と気が楽だ。「悪いなあ」と思う一方で、ついつい「も、もう1ピッチ登ってみようか」などとおもっ
てしまう。ハングの上の垂直のクラックはスメアが効かず、これまた悪い。おまけにピンが遠
い。ナチプロを省いたのが悔やまれる。シュリンゲをコブにして噛まして突破。コワい。徳永は
かなり以前から既に泣きが入っているが、スリップひとつしないでついてきているのに感心す
る。来年の今頃はかなり登れるようになっているだろう。最後から2ピッチ目、細かなフェース
からまたもやクラック。フェースは乾いていて問題なかったものの、クラックは手ズル・足ズルで
ピンチ。「ナチプロが欲しい~」とぼやきつつ、クラックにハンマーを噛ましてなんとか逃げ切
る。ハンマーが噛ませなかったらヤバイところだ。最終ピッチは徳永リード。ランニングの取り
方が不味くてロープが上がらず。既に日も暮れており、思わずため息が出る。結局、4尾根に
抜けたのが19:30。かなり時間がかかった。一服してから懸垂を繰り返して取り付きに戻った
のが23:00。徳永は気分がハイ状態なのか、空を見上げて「ヒガシデさん、あれ、鯨雲ですよ
ね」などという。空一面曇っているのだが…。荷物を回収して御池に1:00着。飯食って酒飲ん
で15:00。明日登るのはダメだなと思いつつ就寝。

翌日、テントでごろごろ寝ていると、9:00頃、広島・天津・内田の後半パーティーが登ってき
た。徳永も登る気がないだろうから、縦走路から頂上踏んで、交信してから先に下山するよと
話ていると、それまでテントで寝ていた徳永がのっそりと起きてきて、縦走するくらいなら登はん
する方がいいなどとのたまう。結局全員で取り付きへ向かう。すでに10:30。広島・天津で下
部フランケ、残りの我々はC沢大滝から4尾根へ。下部岩壁でハング下から右の草付きに回る
ところを、時間が無いため、4尾根めがけて無理矢理左の悪い草付きへトラバースしたのが失
敗だった。えらく手間取り、4尾根に入った頃には時間切れ。

とりあえず交信しようと、ザックを置いてふと上を見ると、広島が交信している。下部フランケに
行っているはずが、なんでピラミッドフェースの、しかも右端にいるんだろう? 「すぐ下にいる
よ」と声をかけると「ああどうも。僕ら下部フランケを詰めてみますよ」と。どうやら自分たちがど
こにいるのか全く把握していないらしい。バットレスとはいえ、本チャンの経験がほとんど無い
のだから、ルートファインディングができないのも無理ないか。結局我々とともにそこから懸垂
してあえなく終了。東出・徳永は当日下山した(ちなみに残った3名は翌日取り付きまで行っ
て、ロープをテントに忘れたことに気づき、取りに戻るなどするうちに各ルートが混み始め、時
間と落石等の危険であえなく敗退。残念な結果となった)。

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谷川岳 幽ノ沢 中央壁正面フェース

1999年9月11,12(12のみ登はん)  

東出(記録)、広島、天津

金曜晩に中央線国立駅に集合。例によって天津が1時間遅刻。車で谷川へ向かう。一ノ倉の
出合いで幕営。11日、朝から小雨が降っている。今年は谷川に入った時はほとんど雨にやら
れている。またか。南稜へ向かうパーティーもいたが、我々は草付の多い幽ノ沢なので、さっさ
とパスしてテントでふて寝と決め込む。ベルニナも数パーティー入っており、南稜へ向かったよ
うだ。結局当日は湯テルメで風呂に入って宴会して終わり。貴重な休みがまた1日潰れた。

翌12日、曇りだったがとりあえず幽ノ沢に向かう。沢グツを履いた中高年パーティーがアプロ
ーチで先行している。途中、釜に行く手を阻まれ、左岸高巻きをしたが、ことのほか時間をとら
れる。渇水期以外はアプローチは沢グツが有効だなあ。二股まではついてきていた天津が遅
れ始めた。中央壁の取り付きまで先に行って待つが、いつまでたっても来ない。コールをすれ
ど返事もない。まさかこんなところで事故ることもなかろうと思ったが、1時間近くも待たされ、
仕方なく様子見にカールボーデンを下り始めたところで下からダラダラ登ってきた。「途中でザ
イルを出してくれないから遅れた」などとのたまう。こんなところでザイルなど出すか。しょうがな
い奴だ。

結局、左フェースを狙っていたものの、先行パーティーが2組いたため正面フェースに向かう。
ザイルを出して登攀開始。草付をトラバースしたところでザイルが足りず。ピンを打って下の2
人を確保。ついでハング下まで直上するが、ハングがボロボロな上に、草付からしたたりがあ
って悪い。しかたないのでハング下を右へトラバース。セカンドの広島が、トラバース途中に掴
んだ岩がもげて、自分の顔面にあたり出血。幸いかすり傷で問題なし。ハング上を2ピッチ登
ると3級程度の草付フェースとなる。既に昼近かったが、あとは易しいピッチンが続くので大し
て時間がかからないだろうと、ここでトップを広島に交代するが、草付をいやがったのか、ルン
ゼ右のヤブに突入してしまう。これで相当時間を食う。結局、堅炭尾根に抜けたのが6時。日
が暮れてしまう。懐電をつけて駆け下りるも、下山ルートを知らない天津が遅れて、結局一ノ倉
出合いに着いたのが21:30。水上IC22:00。

帰京は夜中の1:00。今年の谷川岳はどうにもツキがない。

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甲斐駒ヶ岳 赤石沢奥壁 左ルンゼ

1999年10月1~3日 

東出(記録)、徳永

木曜の晩に京王線府中駅に集合。そのまま中央道にのる。インター手前で既に雨。3日間共
晴れの予報だったが、不吉な予感がする。夜叉神の駐車場に天張って翌朝6:00起床。荷造
りして出発するも、「ここは夜叉神じゃないか!」と慌てふためく。どういう訳か入山口を夜叉神
とばかり勘違いしていた。甲斐駒に来たことのない徳永曰く「地図見たんですが、夜叉神から
黒戸尾根にどうやっていくのか悩んでましたよ」。悩むはずだ。慌てて朝移動で竹宇駒神社
へ。約1時間のロスタイム。竹宇駒神社で拝んでから黒戸尾根を登る。水が出ているか分から
ないので、3日分の水を背負ってのアプローチである。東出3.5L、徳永は水が飲みたいと5L
を背負う。勿論3日間の食料はジフィーズだのビスケットだのが主体である。登りはじめてまも
なく雨が降り始める。13時頃8合目岩小屋着。ちなみに7丈小屋前の水場で、水がじゃんじゃ
ん出ていた。やむなし。当日中に左ルンゼ下部を2ピッチ程度登って、ロープを張っておこうか
と思っていたが、天候が分からないので偵察にとどめる。右ルンゼでも水が取れた。畜生。酒
も持っていない我々は、簡素な夕飯を食って15時に就寝。夜が長い。

翌日は朝から快晴。日頃の行いが良いのは誰だ?と問う暇も惜しんで左ルンゼに取り付く。
7:00。下部はフリーでトライするつもりが、高度感でがたぷるになって即刻アブミを繰り出す。
ルートファインディングが難しいような事がルート図に書かれていたが、自然とピンに導かれて
問題なくザイルをのばす。ただし、3ピッチ目ハング下を右にトラバースするのと、その上で逆
に左にトラバースする部分で一手、二手悪い箇所がある。また、チムニー内は苔むしていて滑
って悪い。第二バンド上のルンゼ左のクラックは、出だし傾斜が緩いものの、途中で一部傾斜
がきつくなり、また、ボルトが抜けたのか、肝心なところでピンが無い。ナッツを噛まして切り抜
けたものの、侮れじ。2.7バンドすぐ上のフェースで徳永にトップをまかせたが、ピンはあるも
のの細かくていやらしい。徳永がA0混じりで抜けて、あとはボロボロに風化したルンゼが続く。
容易だが落石が怖い。先行パーティーがいたら、後ろから登りたくないところだ。最後は中央
稜へトラバースして稜線へ。終了したのが17:00前。毎度のことだが、予想した以上に時間が
かかった。岩小屋で、また酒もなくジフィーズだけ食って就寝。夜から朝にかけて雨がじゃかじ
ゃか降る。

翌朝はガスに巻かれて晴れる見込み無し。Aフランケの登はんはあきらめて下山。昼過ぎに駒
ヶ岳神社着。

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